高麗神社宮司 59代・高麗澄雄氏

高句麗国の滅亡(668年)に伴い、数多くの遣臣たちが日本に渡来したといわれている。これらの人他人は東国の各地に分散居住するようになったが、朝廷は彼らを武蔵国に集め、高麗郡を置く策をとった。「続日本書記」に元正天皇霊亀2年(716)の条に、「駿河、相模、上総、下総、常陸、下野の7国の高麗人1799人を武蔵国に遷して高麗郡を置く」とみえるが、その郡の中心が高麗郡であり、そこに鎮座するのがこの高麗神社である。これは郡の開祖、高麗王若光を祀った社で若光の子孫の代々が、高麗神社宮司として59代、1200年の歴史を連綿と生き続けるいる。

59代高麗神社宮司・高麗澄雄氏
高麗家に伝わる系図

四天王寺正大工39代・金剛利隆氏

「大阪の仏壇」と呼ばれて庶民から親しまれている四天王寺は、聖徳太子が推古元年(593)に建立した日本最古の官大寺であるという。建物そのものは過去何回かの災害により近世以前のものは存在しないが、その伽藍方式になお往時を偲ぶことができる。配置は中門から五重塔・金堂・講堂を南北線上に並べ、中門の両側から行動に連なる回廊で塔と金堂を囲む百済様式で、これを四天王寺式と呼んでいる。この四天王寺の西門近くに、金剛組という近代的な建設会社がある。現社長の金剛利隆氏は四天王寺大工。39代にあたり、四天王寺創建に際して百済から渡来し建設に従事した「造寺工」、金剛重光を祖とする家柄と伝えられている。金剛組は四天王寺の過去の災害の際、そのつど再建に携わってきたという。

金剛組社長・金剛利隆氏 四天王寺にて

薩摩焼 14代・沈寿官氏

俗に「焼きもの戦争」と呼ばれている「文禄・慶長の役」(壬辰・丁酉倭乱)の際に、諸大名たちは朝鮮から多くの陶工たちを連れ帰った。鍋島の有田焼、細川の八代焼・上野焼、黒田の高取焼、松浦の平戸焼、毛利の萩焼、島津の薩摩焼などは、全て連行された陶工たちによって創始されたのである。薩摩藩主島津義弘に連れて来られた陶工たちは、慶長8年(1603)伊集院郷苗代川(現在地・日置郡東市来町美山)に移住して苗代川焼を開窯した。その後に、初代沈当吉と朴平意が良質の白土を発見して今日につながる薩摩焼を創製、いご約400年間にわたり、沈家だけは本来の姓を名乗り続け、一子相伝で李朝陶芸を伝えている。

ろくろをひく14代沈寿官氏